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【橘川幸夫】東日本の復興と地域メディア
1.三陸新報訪問
8月の終わりに、南三陸の気仙沼に行ってきた。何人かの現地の人とお会いして、現場の感覚を知りたかったからである。マスコミやインターネットであふれている情報ではない、生の感覚を知るには、現場の人の声、表情、仕草などから読み取るしかない。
最初にお伺いしたのは、地域新聞の三陸新報社の朝倉社長である。父上から社業を引き受けた女性社長である。
▼三陸新報社
冷蔵施設や加工工場が崩壊したため、漁船を確保して漁に出ても、大量に漁獲しても保存する施設がないということである。震災後、三陸の海岸に行くのは2度目であるが、前回も今回も、瓦礫は撤去されても崩壊した海岸線はそのままである。鉄道も橋梁が崩壊したまま回復していない。水道はようやく回復したようだが、復興のための社会インフラが手付かずである。こうした力技の復興にこそ、国の力必要なのではないか。
朝倉社長のお話で、一番印象だったのが、震災から6ヶ月、中高年の間で復興への意志が衰えている人達が目立つとのことだ。若い人たちはともかく、気仙沼の漁業を復活するためには10年以上の歳月が必要だろう。還暦を過ぎた年代にとって、そうした未来は暗然としたものに映り、やる気を失せさせているのだろうか。
三陸新報にも、地元の企業による求人情報は多くなっているようだ。しかし、正社員として応募する人は少ない。失業保険をもらい、ガレキ処理のアルバイトをやった方が良いからである。正社員で雇用されたら失業保険が打ち切られる。半年で失業保険が切れる人もいるが(一部、延長されたようである)このままでは、生活保護申請をする人が増大するのではないか。
被災直後は、全国から集まる物資の支援が助かったが、最近は、ありがたみが薄れ、それでもタダでモノがもらえるイベントには、高齢者を中心に大勢集まる。朝倉社長は、その光景を見て、複雑な感情を持っているようだった。
それでも若い世代を中心に、津波で崩壊した繁華街である南町で「復興屋台村」を作る動きもある。これは当初、国の補正予算をアテにして、6月にスタートする予定だったが、政局の混乱もあり、未だ実施に至らず、がまんできなくなった若い人たちが、独力でオープンを目指しているとのこと。頑張って欲しいものだ。
▼当初の企画
洋品店が再開したら、近所でTシャツの無料配布会をやっていたらしい。支援の質を転換すべき潮目に来ているのだと思う。被災直後は、生活物資が不足して、とにかくモノが必要だった。現在も以前として不足している地域も存在しているが、本格的な復興のためには、モノを渡すだけではなく、例えば、「復興屋台村」で宴会をやるような企画が大事になってくるだろう。
地域に根ざした新聞社は、中央の大資本の新聞社では伝えられない情報と、担うべき役割がある。そして、被災からの復興は、まず誰よりも現地の人たちが中心になって担わなければならないのだろう。中央政府も、被災地以外の人間も、そのことを踏まえた上で、それぞれがどのような支援が出来るかを考える時期に入ったようだ。
三陸海岸には、大崎タイムス、東海新報、石巻日日新聞など、それぞれの地域に密着したローカル新聞社がある。三陸新報社は、それらの新聞社とも定期的に情報交換しながら、復興メディアとしての位置付を確認しているとのことだ。被災地の復興は、被災地メディアの復興とともにあるだろう。
2.藤田新聞店
そのあとに訪問したのが、河北新報を扱う新聞店である藤田新聞店である。還暦を越えたあたりの、とてもパワフルな藤田さんと奥さんに迎えられて、お話をお伺いした。藤田新聞店では、それまでも「ふれあい交差点」という名称の自前ミニコミを月1回のペースで地域に配布していたが、311以後は、100日間、毎日、発行し、地域の家庭に配布した。現在も週3回ペースで発行している。
▼藤田新聞店を紹介しているブログ
避難場所では、行政からの連絡事項や、ボランティアからの支援の情報が掲示板に貼られている。しかし、それをじっくり読む余裕もなく、貼られているということすら知らない人が多い。藤田さんは、そうした掲示板を周り、地域住民にとって重要と思われる項目をピックアップして、それを編集して「ふれあい交差点」に記事として掲載して地域に配布した。
以前にある企業のCSR担当の方の話を聞いた時に、企業が例えば「被災地の子どもを無料招待」というような企画を立てても、行政に頼むと掲示板に貼ってくれるだけで、全然、集まらないと言われたことがあった。藤田さんのような地域住民に対して、きめ細かい情報流通を作ってあければ、もっと効果的に支援の効果があがったと思う。
インターネットは確かにスピーディに、コストも安く情報伝達が出来るが、実際に支援情報を必要としている中高年には届かないことが多い。インターネットの情報圏外に、多くの本当に困っている人たちがいるのだ。
藤田さんの話で感動的だったのは、地域が孤立した時に、自衛隊が来て、野外入浴施設を設置してくれた。地域住民にとって、とても嬉しい支援だった。その役割が終わり、自衛隊は静かに撤収しようとしたという情報を藤田さんが聞きつけ、このままお礼もせずに返しては気仙沼のなおれだ、と、夜を徹して「ふれあい交差点」を他の新聞店まで行き、手折りで新聞にはさみこみ配ったという。翌日、自衛隊の撤収の時、多くの住民が集まり、感謝のお別れをしたとのこと。
藤田さんの話の中でも「被災者の甘えが出てきた」ということが出てきた。必要な家電のアンケートに3Dテレビが欲しい、とか。この問題は、支援の側からは言いにくい問題だろう。実際、被災者の側の問題が、物資の問題ではなく、ややこしい精神の不安の問題になってきているように思う。
熱血漢の藤田さんは、9月3日に、詩のボクシングの気仙沼大会の実行委員長としても活躍。詩の朗読で、戦うボクシングは、被災地でこそ大きな意味と力を持つだろう。
▼詩のボクシング気仙沼の報告が、こちらのブログに掲載されています。
3.情報の手渡し
僕たちは、インターネットの時代を迎えて、自宅のパソコンで全ての情報が入手出来て、全ての人たちに情報を発信出来ると思いがちだろう。情報の表皮は、それで伝わるかも知れないが、血の通った本当の情報は、やはり、人と人との関係の中で交換されるものだと思う。顔の見える範囲での発信者と受信者の関係が成立する地域メデイアは、全世界的なインターネットメディアの中でこそ、新しい輝きを発していくはずである。
僕たちは、インターネットの情報が届かない範囲に対しての復興支援メディア「bloblo」を創刊した。首都圏の新聞販売店の人たちと協力しながら、本格的に発行体制を準備している。
▼blobloの発行宣言(現在は創刊0号)
今回の三陸訪問で、支援の質の大きな潮目が来ていることを感じた。物質的な支援だけではなく、別の支援の立ち位置が重要になってくるだろう。いずれにしても、今後も、被災地の人たちとの交流を通じて、考えていきたい。根本的なテーマは、これからの日本を一緒に生きていく仲間として、被災地の問題を共有する必要があるということだ。
月末に、福島の農家の人たちの皆さんのお話を聞きに行く。放射線物質の問題について、消費者の抱える危機感と生産者の抱える危機感は、違うと思うのです。生産者は、生産者でありながら消費者でもあるので。
三陸の帰りに、カタツムリ社の加藤哲夫くんの葬儀に参列させていただいた。大事なキーマンを失ったが、本人は自分の役割を全うして、自由に飛んで行ったようだ。
▼加藤くんの葬儀については、こちらで。
▼南三陸町の日々

8月の終わりに、南三陸の気仙沼に行ってきた。何人かの現地の人とお会いして、現場の感覚を知りたかったからである。マスコミやインターネットであふれている情報ではない、生の感覚を知るには、現場の人の声、表情、仕草などから読み取るしかない。
最初にお伺いしたのは、地域新聞の三陸新報社の朝倉社長である。父上から社業を引き受けた女性社長である。
▼三陸新報社
冷蔵施設や加工工場が崩壊したため、漁船を確保して漁に出ても、大量に漁獲しても保存する施設がないということである。震災後、三陸の海岸に行くのは2度目であるが、前回も今回も、瓦礫は撤去されても崩壊した海岸線はそのままである。鉄道も橋梁が崩壊したまま回復していない。水道はようやく回復したようだが、復興のための社会インフラが手付かずである。こうした力技の復興にこそ、国の力必要なのではないか。
朝倉社長のお話で、一番印象だったのが、震災から6ヶ月、中高年の間で復興への意志が衰えている人達が目立つとのことだ。若い人たちはともかく、気仙沼の漁業を復活するためには10年以上の歳月が必要だろう。還暦を過ぎた年代にとって、そうした未来は暗然としたものに映り、やる気を失せさせているのだろうか。
三陸新報にも、地元の企業による求人情報は多くなっているようだ。しかし、正社員として応募する人は少ない。失業保険をもらい、ガレキ処理のアルバイトをやった方が良いからである。正社員で雇用されたら失業保険が打ち切られる。半年で失業保険が切れる人もいるが(一部、延長されたようである)このままでは、生活保護申請をする人が増大するのではないか。
被災直後は、全国から集まる物資の支援が助かったが、最近は、ありがたみが薄れ、それでもタダでモノがもらえるイベントには、高齢者を中心に大勢集まる。朝倉社長は、その光景を見て、複雑な感情を持っているようだった。
それでも若い世代を中心に、津波で崩壊した繁華街である南町で「復興屋台村」を作る動きもある。これは当初、国の補正予算をアテにして、6月にスタートする予定だったが、政局の混乱もあり、未だ実施に至らず、がまんできなくなった若い人たちが、独力でオープンを目指しているとのこと。頑張って欲しいものだ。
▼当初の企画
洋品店が再開したら、近所でTシャツの無料配布会をやっていたらしい。支援の質を転換すべき潮目に来ているのだと思う。被災直後は、生活物資が不足して、とにかくモノが必要だった。現在も以前として不足している地域も存在しているが、本格的な復興のためには、モノを渡すだけではなく、例えば、「復興屋台村」で宴会をやるような企画が大事になってくるだろう。
地域に根ざした新聞社は、中央の大資本の新聞社では伝えられない情報と、担うべき役割がある。そして、被災からの復興は、まず誰よりも現地の人たちが中心になって担わなければならないのだろう。中央政府も、被災地以外の人間も、そのことを踏まえた上で、それぞれがどのような支援が出来るかを考える時期に入ったようだ。
三陸海岸には、大崎タイムス、東海新報、石巻日日新聞など、それぞれの地域に密着したローカル新聞社がある。三陸新報社は、それらの新聞社とも定期的に情報交換しながら、復興メディアとしての位置付を確認しているとのことだ。被災地の復興は、被災地メディアの復興とともにあるだろう。
2.藤田新聞店
そのあとに訪問したのが、河北新報を扱う新聞店である藤田新聞店である。還暦を越えたあたりの、とてもパワフルな藤田さんと奥さんに迎えられて、お話をお伺いした。藤田新聞店では、それまでも「ふれあい交差点」という名称の自前ミニコミを月1回のペースで地域に配布していたが、311以後は、100日間、毎日、発行し、地域の家庭に配布した。現在も週3回ペースで発行している。
▼藤田新聞店を紹介しているブログ
避難場所では、行政からの連絡事項や、ボランティアからの支援の情報が掲示板に貼られている。しかし、それをじっくり読む余裕もなく、貼られているということすら知らない人が多い。藤田さんは、そうした掲示板を周り、地域住民にとって重要と思われる項目をピックアップして、それを編集して「ふれあい交差点」に記事として掲載して地域に配布した。
以前にある企業のCSR担当の方の話を聞いた時に、企業が例えば「被災地の子どもを無料招待」というような企画を立てても、行政に頼むと掲示板に貼ってくれるだけで、全然、集まらないと言われたことがあった。藤田さんのような地域住民に対して、きめ細かい情報流通を作ってあければ、もっと効果的に支援の効果があがったと思う。
インターネットは確かにスピーディに、コストも安く情報伝達が出来るが、実際に支援情報を必要としている中高年には届かないことが多い。インターネットの情報圏外に、多くの本当に困っている人たちがいるのだ。
藤田さんの話で感動的だったのは、地域が孤立した時に、自衛隊が来て、野外入浴施設を設置してくれた。地域住民にとって、とても嬉しい支援だった。その役割が終わり、自衛隊は静かに撤収しようとしたという情報を藤田さんが聞きつけ、このままお礼もせずに返しては気仙沼のなおれだ、と、夜を徹して「ふれあい交差点」を他の新聞店まで行き、手折りで新聞にはさみこみ配ったという。翌日、自衛隊の撤収の時、多くの住民が集まり、感謝のお別れをしたとのこと。
藤田さんの話の中でも「被災者の甘えが出てきた」ということが出てきた。必要な家電のアンケートに3Dテレビが欲しい、とか。この問題は、支援の側からは言いにくい問題だろう。実際、被災者の側の問題が、物資の問題ではなく、ややこしい精神の不安の問題になってきているように思う。
熱血漢の藤田さんは、9月3日に、詩のボクシングの気仙沼大会の実行委員長としても活躍。詩の朗読で、戦うボクシングは、被災地でこそ大きな意味と力を持つだろう。
▼詩のボクシング気仙沼の報告が、こちらのブログに掲載されています。
3.情報の手渡し
僕たちは、インターネットの時代を迎えて、自宅のパソコンで全ての情報が入手出来て、全ての人たちに情報を発信出来ると思いがちだろう。情報の表皮は、それで伝わるかも知れないが、血の通った本当の情報は、やはり、人と人との関係の中で交換されるものだと思う。顔の見える範囲での発信者と受信者の関係が成立する地域メデイアは、全世界的なインターネットメディアの中でこそ、新しい輝きを発していくはずである。
僕たちは、インターネットの情報が届かない範囲に対しての復興支援メディア「bloblo」を創刊した。首都圏の新聞販売店の人たちと協力しながら、本格的に発行体制を準備している。
▼blobloの発行宣言(現在は創刊0号)
今回の三陸訪問で、支援の質の大きな潮目が来ていることを感じた。物質的な支援だけではなく、別の支援の立ち位置が重要になってくるだろう。いずれにしても、今後も、被災地の人たちとの交流を通じて、考えていきたい。根本的なテーマは、これからの日本を一緒に生きていく仲間として、被災地の問題を共有する必要があるということだ。
月末に、福島の農家の人たちの皆さんのお話を聞きに行く。放射線物質の問題について、消費者の抱える危機感と生産者の抱える危機感は、違うと思うのです。生産者は、生産者でありながら消費者でもあるので。
三陸の帰りに、カタツムリ社の加藤哲夫くんの葬儀に参列させていただいた。大事なキーマンを失ったが、本人は自分の役割を全うして、自由に飛んで行ったようだ。
▼加藤くんの葬儀については、こちらで。
▼南三陸町の日々

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